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kizirusikiu

悲観

 私が暫く住んでもいた祖父母の寺が、ある日空っぽになっていた事がある。


 寺はとても広く、散策すれば一時間のうちに数百円は見付かる。時に高価な茶碗や、能面みたいなものも転がっていた。裏庭を少し歩くと茶室もあった。迷路を歩く事になるが、祖父の部屋なんかは、書物やそれを並べる図書館のバックヤードの様な棚、実際に走る機関車の模型、地球儀とかビリヤード台とか、取り敢えず、ロマンに通ずるあらゆるものがあった。階段を下りると、小学校の小プールのサイズの風呂があった。ジャグジーの風呂も別にあって、泡風呂が好きだった。母は、掃除が大変だからジャグジーなんて嫌いだと言っていた。

 暗い暗い部屋に古いピアノがあってビスクドールと謎の壺が沢山、櫛、鏡、ベッドがあって、その部屋はとてもじめっこいのに、その奥に一段下がると、少し明るいレースの部屋に、サンリオのゴロピカドンのペンケースみたいなものとか、ザボードビルデュオ、ウィンキーピンキーのシールか切り抜きかが貼られた勉強机があって、扉から外に出ると、半ば外の様な納戸の様な道があり、台所の勝手口を通り過ぎるまでの通路には外用箒、それと新旧梅干しがズラっと並んであった。

 小探し部屋と名付けられた部屋が2つは少なくともあり、贈答品やお付き合いの為に頂いた様々な物が所狭しと並んでいた。例えば、ティーセットの箱が積まれていて、三つにひとつはウェッジウッド、地域的にノリタケも多かった気がする。私としてはそれらがどういうものかあまり分からないが、有田焼は大抵好きだった。タオルは小探し部屋に一生分あるから買った事がなかったし、布団もそうだった。果物も、買うものではなく、選別してあとは捨てるものだった。メロンは皆に飽きられて嫌われていた。門徒会で祖父が定期的にロブスターを持ち帰るが、それは大抵捨てていた。緑色の寒天の様な物が好きだった。

 納骨堂は、怒られて電気の場所も分からない中閉じ込められるケース以外では概ね好きだった。特に夏場は涼しく、遊び易かった。菓子は選び放題、ポッキーやプリッツは多かった。納骨堂掃除では、ワンカップというのは花を入れている壺の水の次に異臭のする水入れであり、開けて外の溝に雑に流して、流して、流して、ずっと流す事になるが、それでも柄被りの少ないワンカップの裏側は、少なくとも好きだった。酒だとは知らなかったが。兎に角、そんな風に寺には生も死も宗教も食べ物も酒もあらゆらるロマンも、何でもあった。


 しかし、中学のある日突然その全てが全く何もかも無くなっていた。居間でボーンと鳴る古式の時計も無いし、大きな石とか大きな宝石とか、金細工、読書に最適だった北側のやわらかい明りの中の、多分竹だったかで編まれたロッキングチェア、急な階段の先の2つの部屋の間、親戚間で着回される子供服や、絵本、おもちゃの箱が沢山あったが、子供の為のどれも、全てが無い。それに、バレリーナの踊るオルゴール、美しい掛軸、裏庭の植物、茶道具、私の色鉛筆セット、100色カラーペン、あらゆる本も、機関車の模型も、ロマンと言えるもの全て、あとは何が無いだろう、それよりも、存在するものは、本堂の座布団と葬式の時に使う椅子とかの一式、居間の取り外せない机、あとは、あとは多分何も無かった。犬のコロも居なかったし、表側の池の錦鯉も水ごと無かった。


 組織の名前ってどこも同じなのだろうか、分からないから砕いた言い方になるが、最近、門徒総代会で一番偉ぶっていた人が火葬された。集まった人は少なかったと聞く。慣例的に寺の者ならば火葬の直前迄、住職のご挨拶とかお経があるものだが、そういうものが無かったと、そういう事だ。

 その偉ぶっていた人に、私の祖父はあらぬ罪を着せられて、苦しみも大して知らないでいた祖父はそれきりぽっちりと壊れ果てて、鬱と痴呆とパニックだけの人になった。そんなだから、寺の祖父母、主に祖母は、母とが呼んだ業者という業者を使い、何も売りはせず一瞬にして捨て去り、そして逃げる様に隣の県へ行った様だった。そういえばその頃に、私は一億円を手で数えた。私は数字に強いが金の価値が分からず、単に、家の机の上で言われた通り数えて、ケースに入れただけだった。

 私はこの日、最後の見納めに寺に連れて来られたのだと、そこでやっと知った。

 少し補足すると、門徒総代会は善いものではなかった。例えば、人が死ぬ事があった。土地柄西が受け入れられず、東に殺されたと言う。それがたいへん昔の事と言えばそうであるが、一番偉ぶっていた人というのが、実質地域の寺を全て我がものの様にしていて、良くない金の流れがあったり、大量に門徒から金を巻き上げ、自身は話によるとギャンブルに狂っていた様であった。偉ぶる人を好む人は居なかったし、祖父母が投げ出した寺の後継は即座に目を付けられたから、恨みはとても大きく私も顔見せが出来ず、あらゆる形に思い入れのある、言って仕舞えばそのままの姿の実家に、私は近付けなかった。その後継も即座に家族ごと壊されて去ったとの事だった。その間に、私の落書きした銅像と錦鯉の池は消えて、前庭ら平ぺたい駐車場になり、公衆トイレみたいなものが出来たのを確認した。Googleのストリートビューが更新される日が来ない事を祈る。アルバムも無いのだから。

 そういった風であるから、総代の偉い人としては考えられない質素な葬式を、最近私の愛していた、元々祖父母のものであったところの、あの寺の本堂で、適当な住職を呼んでしたそうだと。それから火葬場では細々焼かれていったと。落ちぶれるものは落ちぶれるべくしてそうなり消えていくのだと感じる一方で、天寿を全うする迄に他人から奪ったものに見合う罰は、生きているうちに得たのだか知れない悔しさを覚えた。


 大好きだったものが明日も存在する保証は全く無い。

 妹は、アレルギーだと思われていた未知の病で食事という喜びの無い数年を経て成人し、最近二十一になった。振袖は用意したし、妹に似合う飾りを買い、比較的最近に、少しだけ動けそうだと撮影の予約をして、直ぐ後に搬送された。その日私は心臓の病気で遠くの病院に居て、母も付き添っていた。妹は家に独りで、体の異常に気付いて、かかりつけの、アレルギーが専門の、大好きなおじいちゃん先生の所に自ら車を運転し向かったそうだった。しかしそこの受付に入るや否や意識を失い、大病院に搬送されたそうだ。その時点で、気管に隙間は殆ど無かった。アレルギー症状なのに、アドレナリンを何本も何本も、打っても回復はしなかった。無理矢理期間挿入をした。喉に黒い線が引かれた。そこを切るのだ。更に大きな病院にそのまま搬送されたが、今日がいっぱいだろうと言われながら、成人の撮影予約をキャンセルする電話を入れた。

 その後私が入院した。そして暫く。一瞬、妹が退院し、私は一時帰宅を申請し、妹に会った。妹の退院理由は、とてもここには書けない内容だが要約すると、手に負えないから他所で死んでくれという感じであった。しかし妹の顔を見てすっかり安心して、私が久々の風呂でゆっくりしていたら、少し、少しだけれど異常な音が聞こえて、体を拭きながらリビングをちらと見たら、妹は赤とも青とも白とも言えない色に腫れ上がっていた。気道確保、気道確保、呼吸、心臓は? 反応は?

 搬送された先で、上の様な感じで妹を家に帰した高度救命救急センターに完全に断られ、探しに探してもらい、何時間経っただろう、日付の変更した高速道路で、リスペリドンとロラゼパムを飲んで、妹の既往歴等を書き出していた。意識は無いが生きた事がわかって、私はそうする他無くまた私の入院していた病院に戻った。

またそこから転院した。そこでは、兎に角、何が起きているか分からない事が分かった。


 母は、その多く、私の知り得ない部分を私に隠していた。というよりは、母にとって報告するに足る情報ではなかったと言えた。


 数日経って、母が、覚悟は決まっているから、悲しいけどそれはつらい事じゃないと言って、別の問題の話を始めた。私はそれを聞いて頷いたり、適当な反応をした。

 母の捨てた寺は、その寺特有の苗字があった。母の旧姓もそれだ。古い寺だった。妹はどこかで、ふいとまた、捨てられて、気付いたら、寺に平ぺたい駐車場が出来たみたいに、妹の痕跡が均されて消えているのではないかと、私は恐れている。


 そのうち、裏には知らない保育園が出来る。私の家の周りも、田舎なのに変わらずにはいられなかった。私はASDだから環境が変わるのが大嫌いだけれど、新しいものが好きな妹はその新しい景色をいつか見るのだろうか。



 背の高い私が仕立ててもらった綺麗な喪服は、未だ正式に着られた事がない。


 お色を整えた振袖も、未だ着られた事がない。

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