たまの有名な「さよなら人類」って曲があってな。
歌詞の考察なんて真面目に書いた事は無いが、赤ん坊の頃これが子守唄だった私は流石に、どれだけ言葉を学んでも理解出来そうにないもどかしさから、だいぶ長い間この歌について考察していたと思う。
そんな幼少期の考察は未だに私の中に健在で、何となく嫌な方向に進む事に抗えない印象というのは当時から今迄変わらない。考察サイトなんて見たら負けな気がして見ていないから、誰かと同じ事を書き殴っているだけになるかも知れない。
早速だが、ブーゲンビリアという植物、私はあれをあまり好かない。とてもどぎつくて、恐ろしく大きくなって、痛い程花をつける。あの子が小さい蕾ならば、月の光の邪魔が無くてもブーゲンビリアの傍では見付かりそうにない。落っこちてきた月なんか光っている様だ。ここでの月が光源であるとするならば、大層眩しかろうと思う。たまは結構月を象徴的に出す。象徴学とかではなくもっと直感的に。
この世界はとても汚そうだ。実際この曲が出た頃というのは、大きな公害を経てから、未だ様々な汚染物質に無知で不健康な成長を引きずっていた頃合で、省エネなんかも言われ始めて、それから1985年に初めて開催された地球温暖化に関する世界会議からやっと二酸化炭素に対する現代の様な認識が浸透した。だから、歌詞が「二酸化炭素を吐き出して」から始まるなんて(今でもそうだが)結構ショッキングに聴こえただろう。
曇った空、汚い水、教科書で学んだ様な公害の影響、著しい社会(科学)の発展、ここはそんな世界である。
人々は様々な不安を抱えていた。もはや戦後ではないなんて流行語のあった後にも、戦争から続く不安は様々な形で現れた。例えば、ノストラダムスの予言は世界大戦を経てどんどん広まり、日本でも1973年に『ノストラダムスの大予言』がベストセラー、新興宗教が引用を始めたりもした。「恐怖の大王が空から降ってくる」みたいな話で、それは核だろうか隕石だろうか、様々な噂が出た。オイルショックや公害の悪化がそんな中日本を襲っていて、資源は消える、地球環境も危ない、人類は滅びる、そんな話が出回った。どうやらたまの世界で落ちてきた恐怖の大王は「月」らしい。それもギラギラ光るタイプの月だ。考察サイトは読んでいないが、これが核を表すのではないかとかいう噂は、昔広まったのを知っている。
どうだろう、核なんて明確なものではないのでは。そんな、簡単に代入出来る何かが月役をしているとは思えないな。そんな私がイメージしているのは、夜でも眩しい都会の街並みだった。都会か、そうでなければ工場群かも知れない。一気に建てられて聳え立って眩しく目に痛い、ギラギラとした人工的なライト。月の光さえ薄らぐ程の電気の群れ。それが、本来空にあって夜を照らす筈の月明かりに代わって地上に出来た新しい夜の明かりなのだ。文明はまばゆい月を作った。
ブーゲンビリアの木はとても大きくなる。眩しい建物の一つだろうか...ネオンの様な。イヤ、人であるあの子がこの歌詞の中で蕾ならば、咲いている花の人も居ていいだろう。すると、大量の花をつけるブーゲンビリアはさしずめ街に群がる派手な人々か。
人類は進歩をしていた。それはもう著しく、科学とは無縁だった人々を科学の世界に呑み込み、労働の仕方もどんどん変わった。あの頃人類は立ち止まる事を知らない様に発展に目をギラギラとさせて、新しい技術に飛び付き続けた。彼等には、目的地は無かった。多くの人はどこを目指しているのか分からないままに、その変化に翻弄されるばかりだった。さながら、今とは異なる最終到達点への進化過程であるかの様に。
どんどん変わっていく世界が恐ろしい、変化に付いて行けない、一体どこに向かっているのか分からない。地球を捨てて木星に?夢みたいな話だが、一体何の為に?そんなの、ヒトの歴史が終わった様なものではないか。
ピテカントロプスとは、今の人(ホモ・サピエンス)には成らずに潰えたホモ・エレクトス、絶滅した猿だ。そんな猿にはなりたくない。自分達はもう既に十分な文化を得て、進化し切ったゴールの姿じゃ無かったのか、未だ先に向かって走り続けて、それで行き着く先は突拍子も無く木星なんかで、また人類は木星という星に新たに発生した生物として誕生する(猿になる)も、どうせピテカントロプスと同じで絶滅する運命なのだ。
歌を忘れたカナリア、牛を忘れた牛小屋、人類はもう目的を忘れている。科学の発展にばかりノリ気であり、そんな博士がやっている事は、世界に散らばった新発見の欠片を拾い続ける事だ。この詞の科学観はたいへん悲観的で、更にはきっとこの博士のイメージも、磁石同士がくっ付く感じで最新技術が誕生する様な突飛なものなのだろう。しかしそれ迄科学とは無縁だった人々の見る「科学」とはそんなものだった。博士が暴走して、新しいものを発見しては工場を作らせて、人々の生活に全く新しい何かが出来上がっている。兵隊は新たな土地か資源を求める声に従って南へ向かう。戦いは起こる。
求めてもいないのに、地球温暖化や戦争の所為で人類は終わるかも等と言われれば、何をやっているのだと悲しくもなるだろう。
しかし、現実はずっと続く。町の外れの夢の後なんてのにも、ペガサスが生き残る余地は無く、翼の無いペガサスなんて馬なのである。夜空にはしごをかけていると言うなら、きっとそれは人類が木星に行くのと同じ、遠くに夢を求めたのだろう。
打ち上げるものと言えば花火もだがロケットもそうだ。木星に着くにはきっと必要になる。あの子が見つからなかったのは、若しかしたらあの子はこの世界の変化に適応していて、祝福すらしている「新しい人類」だったから、なのではないだろうか。あの子は木星に行けた人、ピテカントロプス。そうやって人々はどんどん猿になるし、その社会に抗えない自分もいずれ猿になる。
それがこの歌の物語だと、思っている...と言いたいところだが、人類がはじめて木星に着いて、いずれピテカントロプスになるのは地球に取り残された側説も頭の中にある。そうすると今度は、古い世界に取り残されたくないから博士の真似をして砂浜で磁石を拾っているが矢張りどうしようもなく取り残される、みたいな話になる。しかし、たまはよくCパートみたいな所をライブバージョンで思い切り変えるが、それを色々聞いている限り猿になるのは矢張り変わっていく人達だ。猿はケーキの甘さを感じられるか心配する必要があるという事は、猿が進化先だととるのが妥当だからだ。
記憶が正しければ、犬の肉を食べているバージョンも無かっただろうか。ぼくの町には犬がいないみたいなCパート。あれも恐ろしい人の進化というか退化というか、複雑な気持ちになるが人の変化を歌っていた。