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kizirusikiu

誰にも見られない場所で

 入院してもう1ヶ月はとっくに過ぎていて驚いた。突然泣き笑う事は無くなった。退院迄の流れを話した。詰り退院、できるのだ。

 入院中に、色々な薬が合わず副作用を出しまくった挙句、薬剤性過敏症症候群も出してこれは今も投薬等を受けているが、そのうち何とかなる。私の妹も入院中だが、あちらはあちらでレアな遺伝性の疾患の可能性があって遺伝子検査の結果待ち、場合によっては私も検査だ。妹の方がもう何度余命宣告をされたかという感じで、危ういので私は少しずつ向き合わねばならない。


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 twの機能に「コミュニティ」というのがあって、ざっくり言うと目的を絞った共通カテゴリーの小部屋が作れるのだけれど、私は最近「AI和解派」という所で活動している。コミュニティ設立直後に入って、創設者からモデレーター役を最初に受けたくらいには、前のめりでやっている。

 AI和解派の評判については、AIに関心を持っている方のおすすめ(トレンドと呼ばれているが)に載ったりして、よく言えばとても注目を集めているが、悪く言えば、べらぼうに悪く言われているし私も度々晒されている様だ。tw内で「和解派」という言葉だけで検索しても、十分にその評判は知れるだろう。


 私は予てより技術が好きな、病弱でさえなければまじで一生技術職で研究に従事していたかった人間で、尚且つ絵描きである。AI(特に画像生成AIを指す)への関心は、パソコンに触れて盛り上がっていた小学生男子のそれと同程度であった。

 しかし少し大人にならなければならない問題があった。親しい友人の周りのイラストレーターが、LoRA(Low-Rank Adaptation)──凄くざっくり言うと、何でもいっぱい勉強してフラットなAIに、ある目的に特化させる為に追加で学習を施したヤツで、特定の絵描きのタッチの模倣とかが出来たりする──を作られ、生成AIユーザーに精神的攻撃を受けているのを目の当たりにした。

 絵描きとして私は結構潔癖である。自分の描いたものの中で、手放すぞと思っていない絵が、好き勝手に利用されているのが不快だ。私が金を受け取って提供した絵でも、それを使って好ましくない活動をし出した奴は許さない。極めて潔癖である。だから、絵柄模倣LoRAで被害を受けるという事が、キラキラとした技術の嫌な面として私にグッサリと刺さり、とてもショックを受けた。その被害に怯え、イラストレーターさんを心配しながらも何も出来ない事を悔やんでいる友人が、特に私に刺さった。助けたいと思った。私は工業倫理をやっているが、普通はやらないだろう。技術と関わる者としてのリテラシーなんて外部には無い。だからこうなった。

 助けたいって、とても傲慢でしょう。でも何かしなければと思ったのはきっと確かで、私はこのイラストレーターさんの抱える問題に注視しつつ、文化庁のパブリックコメントを見たり、色々した。

 インターネットの普及やゲーム脳なる概念の発生、ガラケーやスマホ、私の生きている間にも変わり続けた技術に、人々が抱いていたかも知れない不安に初めて立ち会ったと思う。


 個人的な話、学生の頃は原子力学会にお世話になった。フランスでは反対運動が極めて過激で、会場の裏口みたいな所から私服に着替えて出て行った時とか、色々な熱意、私の愛するものへの嫌悪感の表明や憎悪、もっと言うと私達への人格否定......。何が言いたいかといえば、研究者がよりよく良くあれと研究している事自体への純粋な否定があって、丸で私がミサイルになったかの様で、また相手には少なくともそう見えているという確信を持てる、そんな機会は、以前よりあった。アレって過激な人達がおかしな事しているだけでしょう? 多くの人は理解者だから気にしないよ、少なくとも学校に戻ったら、皆嬉々としてこの技術の話をするじゃないか。流石はフランスなんだよ、民衆が何にでもキレてら。そんな気持ちだったと思う。

 私を取り巻く環境はあまり良くならなかった。私は、平易には、原子炉に用いるより安全で耐久性に優れた材料を研究していた。海水, 高温, 核分裂、要は材料を腐食させる事が目的の様な最悪の環境で使われるべき強い材料を研究していた。要するに、それを使って炉を作る前提だ。対して、普通に世論は原発反対寄りで非効率極まりない他の発電設備を推進、せめて地熱なら良い、太陽光太陽光、太陽光、太陽光。肩身がとても狭かった。安全になれば良いんだろ? 今に見てろと思っていた。まあ私は、思う事しか出来なかった弱い存在であった。


 AI和解派コミュニティで、私は取り敢えずお勧めの文献を聞いた。統計学の本は、読んだ後で蔵書に買い足す必要があっただろうかとやや思ったが、より実用的で現代に即しているので大事かも知れない。LLMの本等も読んだ。久々に勉強をした。

 先生が言っていた。使う道具を知らずに前に進むなと。XRD(X線回折装置)やSEM(走査型電子顕微鏡)等々、原理や機構を先ず知らねばならない。例えば内部構造を完全にそらで図に描けないならば、私達に使う資格は無いという事だ。実際、検査とかに用いる装置を用いるくらいであれば、社会に出ると大抵パートさん(実験補助)のお仕事である。

 使う機械の理解、徹底しているか? そんな訳ないじゃないか。正直研究に用いる装置と違って世に出回る機械達はブラックボックスだ。当然利益の為には全てのノウハウを明かすなんてしないでしょう。まあしかし、とは言っても、学ぶ事がはじめに重要であると思ったし、有難い事に専門書も増える一方の分野だろう──熱力学とかみたいに良書判定が厳しく手元の本が増えるばかりの道には進まないでほしいが──。


 原理の話はよそう。私の感想を述べる。仮に生成AIの技術について上手く学習をしても、精神面に安心を齎してくれるとは限らない。崇高な人間の道徳感情に障る可能性は否定出来ない。法律を学んでも難しいだろうと思う。心の問題だ。それこそ、原子力と同じだ。学会内ですら、実際問題活用するにあたってどれだけ積極的かという点では大いに割れる。私の頃は少なくとも割れていた。


 現代私達を取り巻いている技術、新しい倫理観、またはそれらが反映される学校教育、様々なものの長期的な影響、リスクについて、私達は基本的に知らない。

 小学1年生の頃に全校集会でゲーム脳防止の講習があった。あれは当時の目で見てもデータの取り方も見せ方も恣意的で頭悪そうだという印象だったが、当時のゲームとはかなり変わって、再考の余地が感じられる。ゲームというのが人の消費活動──特に衝動的で思慮深くない消費──を強く促すデザインに特化していったら。それに慣れたら。これはゲームだけではない。あらゆる消費活動にそういったノウハウが広がればどうか。衝動と短期的な快楽の連続、次々に変わる常識とトレンド、そういったものに対する出資が帰属意識と繋がっていく、そういう世界に慣れていったら私達は、時間を掛けに掛けて見えない結果に手探りで向かい、私という時間と存在をひとりで尊ぶ様な生活、詰り、穏やかな哲学を、身に付けられないまま進んでいってしまうのではないか? そう、思う事は出来る。


 技術のリスクを考えられない人間が、技術を疑う事無く受け入れ扱うなら、何らかの餌食になるかも知れない。何らかの。それは金銭的な損失を指すかも知れないし、もっと人生らしく、『モモ』の時間どろぼうみたいなものかも知れない。

 思慮を尊び、技術を疑い、流れに乗らない人々を尊重する時間、穏やかな時間を、作れないかと私は思う。

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